職場で意見が対立して長引いた際、「面倒だから相撲で決めろよ」と思っているGOです。
実家に暮らしていたころは、父親が相撲好きだったのでたまに一緒にテレビで見ていました。
そんな父も、相撲協会の暴力沙汰、八百長沙汰で少し相撲熱が冷めたと聞いています。
さておき。
舞鶴市の多々見市長が土俵上で倒れ、女性が人命救急にあたっていた際に、「女性は土俵から降りろ」と言った問題。
実際にどんな言い方をしたのか、どんな雰囲気だったのか分かりませんが…
ニュースでもよく言われてますが、しきたり・伝統より人命が優先されるのは当たり前ですね。
(そこを否定してしまうと、もはや現代社会で生きていくのは難しい価値観でしょう)
相撲協会の方も、悪気はなかったかもしれませんが完全な過ちでしょう。
悪気がなかったのなら、そのこと自体が問題ですけど。
そんな相撲問題をきっかけに、伝統について思うこと。
<目次>
伝統と変化と
土俵に女性が上がってはいけないのは、伝統とされています。
その「伝統」というのは、非常に難しい考え方です。
伝統=守るもの(原理主義的)な考え方もあれば、
伝統=古臭い、今の時代に合わせるべき、という考え方もあるでしょう。
私は、若いうちは「伝統なんて興味なし」でした。
しかし年を取ると、「伝統も大事だな」と思うようになりました。
長い年月続けてきたことというのは、それだけで価値があるなと。
(すべての伝統に当てはまることではないけど)
伝統を現代向け、受け入れやすいようにアレンジすることも多いですよね。
ちょっと違うかもしれませんけど、「こけし飛行機」とか。
今回の問題は、伝統・しきたりを杓子定規にしか捉えられないこと
人が急に倒れ、症状も分からない状態なのに「あ、女が土俵に上がった!」というところに気が向かうのは、ある意味ではすごく冷静だなと思いました。
よっぽど常日頃から厳格にルールを守ってないと、そんな非常時にまで出てこないのではないでしょうか。
逆に言えば、ルールや決まり事、しきたりには相当うるさいのでしょうね。
以下は仮の話ですが、
あの場で、「女は降りろ」と救急していた方を下し、市長が亡くなった場合、だれが責任を負うべきだったのでしょうか。
バイトの学生が軽く失敗したとき「マニュアル通りにやりました」と答えれば許されるかもしれませんけど。
「人の命より女人禁制が優先です。だから下しました」は、個人の価値観としてとやかく言う気はありませんが、この現代社会においては通用しないでしょうね。
見直すことと、自信をもって説明できることが大事
相撲界における女人禁制には諸説あるようですが、
「相撲は五穀豊穣を祈る神事という側面があり、その神は女性。なので女性を土俵に上げると神が嫉妬する」という説が多く見受けられました。
神のくせに細かいことにうるさいなあと思いましたが、人間が作ったものだから仕方ない。
今回の騒動は、不幸中の幸いにも倒れた市長は無事でしたので、
伝統・しきたりを見直す良いきっかけになったと思います。
見直した結果「女人禁制は絶対だ(今回のような緊急時を除いて)」でもいいと思います。
ただし、伝統・しきたりの理由が「自信をもって」説明できることが条件だと思います。
そして、その理由が多くの人から理解されず、特に女性相撲ファンが離れてもいい、というほどの自信があるならば。
「諸説あります、起源は分かりません。でも伝統だから」では駄目でしょうね。
宝塚市長は…?
ただ、伝統を大事にしている人の気持ちは尊重しなければならないですし、「意味もなく」ふみにじる必要は無いと思います。
宝塚市長(女性)が、この人名救出騒動の後、「あいさつを土俵上でしたいと言って断られたのが悔しい」と語ったそうです。
が、そういう伝統があると承知したうえで、必ずしも土俵の上でしなければならない理由が無いのに「上がらせろ」というのはちょっと違う気がします。
そもそも宝塚劇団も男性禁止じゃないのか?
何年くらいで「伝統」と呼ぶ?
日本古来の風習・伝統というと、奈良時代やら平安時代やら出てくるイメージですね。
伝統の味や伝統の技は、江戸時代や明治時代くらいが多いイメージ。
日常的に使う、「うちのサークルの伝統行事だから」くらいは3年経てば伝統行事になってそう。
年数=伝統でもないですし、伝統=変えてはならないものでもないでしょう。
かと言って、合理的・経済的視点からだけで語ることができないのが「伝統」。
まあ面倒な伝統には関わりたくないなってのが個人的な結論です。