今回は、認知症について思うこと。
思うことを全部書こうと思うともっと長くなってしまうので、割とコンパクトにしました。
先日、介護施設を運営する人と話をしていて、こんな話を聞きました。
認知症は老いの一環であり、本来なら病気ではない。しかし、認知症という言葉そのものや認知症予防といった言葉は、健全な老いを病気へと変換させ、ビジネス化しているケースもある。
(内容は抜粋しています)
一理あるなあと感じました。
医療上、高齢による物忘れと認知症は、基本的には分けられていることは知っています。
しかし、その判定ってそんなに厳格にできるんでしょうか?
また、厳格に分ける必要があるのでしょうか?
「認知症」をことさら恐ろしい病気として取り扱い、分断した社会は不自然であるとの話もありました。
確かにある日突然、物忘れだと思ったら病気⇒施設行きというのは恐ろしいかもしれません。
幸いなことに、私はまだそんな事態にはなっていませんが、想像するに難くない。
認知症として施設等に入った場合、できることは限定されてしまいます。
外出も気ままにできないでしょうし…
認知症以前にそもそも物忘れなんて無い方がいいわけですが、残念ながら人は忘れていく生き物です。
肝心なことは、現代医療ではほぼ不可能な「認知症にならないこと」よりも「認知症になっても安心して社会生活が営めること」を目指すべきだとその運営者はおっしゃってました。
理想的ではあると思います。が、しかし。
これって恐らく、よくある「総論賛成・各論反対」の典型例だと思うんですよね。
たしかに「認知症は分断である、なっても支えられる社会があるべき」というのは、一定の理解は得られるでしょう。
だけど「じゃあ自分が認知症を予防・軽減できるならば、その予防策を取りたいか?」と言われたら、多くの人がしたいと答えるんじゃないでしょうか。
それなりのお金を払っても取るでしょう。
私の祖母も最期の数年は認知症と診断されており、かろうじて息子=私の父は分かっていたようでしたが、私含む他の人は顔と名前が一致することはなくなりました。
その時の正直な気持ちとしては、「まあしゃーない」くらいの軽い感覚で悲しみもありませんでしたが、徐々に「祖母本人の心理状態はどうなっているのだろう?」と純粋な疑問は感じていました。
寝たきり生活で認知症と診断され、果たして楽しみはあったのだろうか?
まあ認知症になってみないと分からないですし、簡潔に言えば医療の進歩にも期待したいところです。
ただ冒頭の運営者が言っていた、「重度の認知症患者より、性格悪いジジイ・ババアの方が施設としては厄介だ」というのはなるほどなあと思いました。
閑話休題。
認知症について調べていたら、段階症状についてこんな文章を発見しました。
最大は7です。震度と一緒。
段階3: 軽度の認知機能の低下
このような症状を持つ人の一部が初期段階のアルツハイマー病として診断される。
友人,家族,同僚などが変化に気づき始める。
記憶あるいは集中力における問題が,臨床試験で計測可能な場合がある,あるいは詳細な問診において識別される場合がある。
一般的には,次のような困難が見られる:
- 家族やその他の親しい人々が,言葉あるいは名前が思い出せないのに気づく
- 新しく知り合いになった人の名前を覚える能力が低下する
- 家族,友人,あるいは同僚が,社会的あるいは職場における任務遂行能力の低下に気づく
- 文章を読んでもほとんど覚えていない
- 価値のある物品を失くす,または置き忘れる
- 計画を立てたり整理する能力が低下する
(Alzheimer's Associationのホームページより)
私、完全にこのケースに当てはまってますね。
私の場合は、認知症というより不眠症から来ているものだと思いますが、やはりこう当てはまるのは恐ろしいものを感じます。
10年近い不眠症による影響というか症状ですが、果たしてこれから治るのかしら。
この記事に、特に結論はありません。
ただ認知症について34歳の今考えたことを並べてみました。
この後、私自身の段階が進んだり、先に親が認知症っぽくなったりしたら、また意見も変わるかもしれませんね。