「JR上野駅公園口」 柳美里 著
多少のネタバレを含みますが、読んでみないとこの本の良さは分からないので、ストーリーは知ってしまっても問題ないかもしれません。
筆者の柳美里(ゆうみり)氏は、在日韓国人の方だそうで「やなぎ」さんじゃなかったんですね。
この本は福島が舞台の一つとなっていますが、実際に東日本大震災直後に福島入りし、現在ではブックカフェを営業されているそうです。
JR上野駅公園口の概要
福島から流れ着いたホームレスの記憶・心理描写中心の作品。
昭和の初期から家族のために出稼ぎを続けた男。
平成も終わりに近づくころ、人生の最後の終着地として、上野恩賜公園でホームレスとしての生活を始めた。
過去の兄弟や妻、息子、孫娘…家族がいた頃の記憶と共に。
描写の移り変わり
過去の記憶、他人の会話、現在の様子が入り乱れて書かれているため、慣れるまではいつ何の話をしているのか、場面の移り変わりに翻弄されてしまいました。
また文体も独特であって、文法的にも慣れが必要でした。
ただ、それも含めて、この男の走馬灯のような作品でした。
背負いたくない
何もかもを失った喪失感でホームレスへと流れ着いたというよりも、何もかもを背負いたくなかったという印象を受けました。
確かに家族を立て続けに亡くしてしまっていますが、それでもホームレスにならずに生きていくことはできたはず。
孫娘と安住していたにも関わらず、どこか引け目を感じて自ら家を出てしまいました。
彼は元々、ずっと出稼ぎ労働者を続けてきた一生であり、それは結局は、目の前の人の人生を背負いたくないという逃げの一種なのかもしれませんね。
それが悪いとは思いませんが。
ホームレスと天皇と
この作品は、ホームレスと天皇家が対比的に描かれているのも特徴のひとつです。
共通することは、どちらも好奇の目で見られるということでしょうか。
実際に天皇家を生で見たことはありませんが、多くの人は崇拝や畏敬というだけではなく、ある程度の好奇の目で見ることになるでしょう。
ホームレスも、最近は見かけることが減りましたが、好奇の目で見てしまうことになります。
あるいは光と闇のような、どちらも象徴的存在ともいえるのかもしれません。
そんなことを言うと、天皇家にもホームレスにも失礼なのかもしれないと思いますが許してけろ。
心に残った一文
独白の中にさらっと書かれていましたが、この言葉がずいぶん印象的でした。
どんな仕事にだって慣れることはできたが、人生にだけは慣れることができなかった。人生の苦しみにも悲しみにも・・・喜びにも・・・
この気持ち、何となく分かるんですよね。
苦しみや悲しみは誰しもあまり触れたくもありませんが、喜びというのも取り扱いが難しい感情だと思っています。
喜ばしい事ならば、何度あってもいいか?というと、必ずしもそうではないと思います。
贅沢を知るとその先を求めるのが人間です。
喜びが多くても満たされないかもしれないし、その喜びを失うという恐怖に負けるような気がしてしまいます。
思うに、私が結婚等を「しない理由」の大半がこうした心理に凝縮されていて、結局は「幸せを失う恐怖に勝てない」からだと思います(「できない理由」はまた別の話です)。
ある意味では、損な性分かもしれませんが、自分の身と心を守る自衛本能に近いのかもしれませんね。
なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ
なるべくいっぱい集めよう そんな気持ち わかるでしょう
(ブルーハーツ 情熱の薔薇より)
何事も程々がいいのです。
でも幸せいっぱいの生活と、不幸がない生活だったら、後者を選びますね。