はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
昨日の記事に引き続き、こんなタイトルのお題が出ておりましたので書いてみたいと思います。
どちらかというと、また思い出ですね。
エピローグ
その日も今日と同じ、うだるような夏の日だった。
照りつける日差しは、正に「刺す」ように強く、暴力的と思えるほどだ。
セミの鳴き声はかえって気にならないほどに騒々しく鳴り響き、太陽に負けじと耳から夏を伝える。
小さな公園のベンチに木陰を見つけ、灼熱に息を切らしながら流れ込むように座る。
道行く人々は日傘、うちわ、ペットボトルなど、思い思いの暑さ対策をしながら、それでもどこかへあくせくと歩いていく。
そんな人々を見るとはなしに眺めていると、余計に頭がぼんやりしてくる。
人が人ではなくうねる川のようで、左右の流れに飲み込まれていくような錯覚さえ感じたところで、暑さのせいだと気を引き締め直す。
インターネットとわたしと
インターネットが私のところにやってきたのは、中学2年か3年だったと思います。
もう20年前のことになりますね。
細かい経緯は忘れましたが、我が家に「Windows98」がやってきたと同時に、インターネットが使えるようになったはずです。
余談ですが、うちの父親はあの当時と現在でパソコンのスキルや知識は変わっていなそうですが、そんな人でもゼロからパソコンを買って、ネット契約をして…というのができたというのが信じがたいです。
今思い出すと、父親の知人に頼んだったんだったかなあ。
あるある話ですが、当時はダイヤルアップ接続というもので、いわゆる電話回線に乗っかってネットにつながる、というものでした。
最初に「ダイヤルアップ接続」を行うと「カタカタカタカタ‥‥ジーコロコロ」みたいな接続音がして、数分して成功すればインターネットにつながります。
(私も細かい仕組みは知りませんので、違っている部分もあると思います)
最初のインターネットで何をしていたか
どちらかというと、非合法に近い使い方をしていたように思います。
私の周りにはインターネット環境がほとんどない友人ばかりで、思春期の中学生です。
まあ詳しい事は書かないで置きましょう。
20歳前後のインターネット
大学生の頃には、自室にノートパソコンを買って、無線LAN接続できるようにしていました。
(当時からWi-Fiと呼ばれていたっけ?)
その頃は、前にも書いたと思いますが、ネットゲームのラグナロクオンラインにハマりまして、2~3年はやっていました。
本当にピーク時は、夜中の20時~明け方5時くらいまで延々とやってましたね(ゲームと言うよりチャットのみの時も多々)。
その後寝て、朝8時には大学行っていたので、当時はやはり体力がかなりあったんだと思います。
その時のメンバーとはオフ会もやったり、九州や東海の人にも会いに行ったり、結婚式(リアル)に呼ばれたりと、そこそこ交流も生まれ、狭いゲームの世界、パソコンの中のインターネットの世界を通じて、現実の世界も少し広がりました。
社会人になってからのインターネット
社会人になってというより、銀行時代はインターネットはほぼ使いませんでした。
というのも、銀行は(ある程度は今も)システムのセキュリティが過剰なほど求められるので、原則としてインターネットにつながるもの=危険とみなされ、社内に端末すらありませんでした(後に、独立したものが置かれましたが)。
そんなわけで、専らプライベートでしか使う機会がありません。
そして確か社会人になって早々に、iPhone3G(だっけ)が発売され、特に価値も分からず機種変更してみました。
当時は3G回線ですし、「アプリって何」くらいのレベルからだったんですが、その後のスマホの発展はご存知の通りであり、それに伴いインターネットの回線もコンテンツの量・質も天文学的なくらいに増大し続けています。
現在に至るまでのインターネット
それで、その辺り~現在に至るインターネットと私について。
インターネット無しの生活はもはやあり得ませんね。
情報源である以上に、買い物・旅行の手配・各種手続き…など生活に欠かせない(正確には、極めて利便性が高い)部分がかなり大きくなっています。
10年前は、テレワーク制度が自分でも導入できるとは夢にも思いませんでしたし。
この先もインターネット無しでは生活できないと思いますが、今後はどうなるのでしょうね?
今度記事に書こうと思っていましたが、人の営みにおいて、効率性(≒主に経済合理性)がとことん突き詰められてある程度の豊かさがあると、情緒的なものの価値が高まると思っています。
インターネットによって、デジタル・高速な通信が可能になっていますが、その反動として、「オフライン」や「敢えてゆっくり」などのものの価値も高まっていくんじゃないかなと。
古くは、ヨーロッパの芸術家たちは王族・貴族のような裕福なパトロンに支えられていたわけです。
最近で言えば、(当時の王族・貴族ほどの資本力はなくても)古民家ブームになっているのは、その一つかなあと思いますし、モノ消費からコト消費なんていうのも、その一つの表れかなあと思います。
どちらがいい・悪いではないのですが、いずれにしても「極端」は避けたいところ。
インターネットも生活必需品であり単なる効率的生活にはどんどん使っていくべきだと思いますが、人生の豊かさとなると、適度な距離を取るべき場面も多いと思います。
ネットというか、デジタル全般の話になってしまいましたね。
そして何でも適度に、というのは私の出しがちな結論で、何に対しても言えることでもあります。
デジタルは駄目だ!フィジカルだ!筋肉だ!フンドシだ!というのでは困りますしね。
最後に
エピローグの部分は全く関係ないです。
「文学」とお題に入っていたので、それについても触れないといけないのかと思いまして。
このエピローグから最初の思い出話に繋げようかとも思いましたが、面倒になりました。
文学的表現って難しいですね。
小説的なものを書こうとしたことがほとんどないので、いろんな言い回しで夏の暑さを描写しようとしても、語彙力や表現力が足りません。
会話形式だと、もう少し楽なんですけどね。
昨日の御話