一粒の砂も、ひとりの人間も。
「今日はここ、混んでいるな」と思う時ってありますよね。
平日はほとんど人も歩かない場所に、休日はわらわらと人がいるような場合。
ある程度の空間、例えば10m×10m四方の部屋に1人の人間が立っている。
2人になっても、まだまだ余裕。3人も余裕。
これが100人になったらかなりの濃さで、「混んでるな」と思うでしょう。
そんなときに「どこからが閾値なんだろう?」と漠然と考えることがあります。
50人なら?20人?30人?47人?
一粒一粒の砂なんて目にも止まらないのに、砂丘には大勢の観光客がいます。
私の感覚的には砂が集まったら砂丘ですが、じゃあどこからが砂丘かと言われると難しい。
小さいころに公園の砂場で山を作りましたが、高さはせいぜい50㎝くらい。
あれは砂山だろうとは思います。
高さが100mなら間違いなく「砂山」と感じますが、10㎝でも山のような末広がりの形をしていたら「砂山」と感じるかもしれません。
夏場によく思うのは…
喉がカラカラだ。どこかで「水を今飲めば助かるけど、今から1秒後に飲もうとしたら間に合わず死ぬ」というタイミングがあるんだろう…なんてこと。
ゲームならHPが1なら生きていられて、ゼロになれば死ぬので分かりやすいんですけどね。
それを思ったからどうということもないのですが、人間の生き死にだとか世の中の事象は、案外閾値ギリギリで何か起きているのかななんて思って、少し切なくも不思議な気分になります。
そういう気分は結構好きですね。
なんてことを書き連ねつつ、鳥取砂丘にある小さな山は何の「背」って名前だっけと調べようとしていたら、「砂山のパラドックス」という言葉があるそうです。
砂山と判断したものから徐々に砂粒を取り除いていき、最後の一粒になったときにこれが砂山と呼べるのか?というもの。
Wikipediaまでできていました。
例えば鳥取砂丘の「馬の背」で茶碗一杯の砂を取り除いても、まだ砂山です。
それを何回も何回も続けると、どこで砂山ではなくなるのか?
それとも砂が一粒でも砂山なのか?もしくは砂山なんてないのか?
オラには難しいことはわかんねえけんども、こんな思考実験的なことを考えてみるのは、時に楽しいですね。