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【読書感想】君の膵臓を食べたい(きみすい)【実写&アニメ映画化作品】ネタバレあり。

「君の膵臓を食べたい」 住野よる 著

 

タイトルのインパクトが大きいですね。

アニメ映画化、実写映画化もされた有名作です。

略して「きみすい」なんて呼ぶそうです。

kimisui.jp

 

好評だったせいか、2018年9月1日公開でアニメ映画化もされるようです。

kimisui-anime.com

 

私は、「有名過ぎると読む気がしない」という反骨精神(≒卑屈)を持っているので避けてましたが、ブックオフのセールに合わせて買ってみました。

なめてかかってましたが、結果として、読んでみて感動しました。

 

タイトルから想像していた、

①男女がキャッキャ

②どっちか死にかける

③膵臓を食べると治るという古の伝説

④死ぬ前にいただきまーす

⑤あなたは私の血肉として、これからも二人で生きていくわ

というグロ&ラブなストーリーではありませんでした。

 

以下、後半はネタバレもあるのでご注意を。

 

 

「君の膵臓を食べたい」あらすじ

山内桜良の死から物語は始まる。

 

高校生の「僕」は友達もいない、しかもそれを全く気にかけていない。

趣味は読書で、本の世界は好きでも、現実のクラスメイトには何の関心もなかった。

ある日、病院でたまたまクラスメイトの「山内桜良」の手記「共病文庫」を手に取り、

彼女が膵臓の病で余命1年ほどであることを知ってしまう。

 

秘密を共有することとなった山内桜良は、それを意に介さない態度の「僕」に興味を持つ。

山内桜良は、死を目前にしながらもそれを受け入れており、自虐的に死を笑いのネタに変えるほどの明るい人物だった。

そんな正反対の性格の山内桜良と僕とが触れ合い、遊び、言葉を交わしながら、

友情や愛情という言葉では表現できない関係を築く四か月間を描いていく。

 

人間的とは何かな

本書のテーマは「人間らしい生き方」だと思います。

両極端な性格にある「僕」と「山内桜良」の生き方。

それは果たして人間らしい生き方なのでしょうか。

 

人は感情の生き物でもありますが、理性も持っています。

感情を露出するのが人間らしいのか、理性で抑え込むのがいいのか?

若い頃の私は後者を優先した結果、昔の彼女には「あなたは感情が乏し過ぎる」と言われて振られた思い出があります。

それ以外にも不満はあったと思いますけど。

 

「人間らしくありたいなんて それは人間のセリフじゃないだろう」

というハイロウズの歌詞(曲名は「No.1」)を聞いて、無駄な悩みだったなと気づきました。

 

死を笑いに変えられるか?

物語の冒頭部分を読んで思ったことは、山内桜良のように「死を笑いに変えられるか?」です。

作中でも、

「大学生になったらいっぱいおしゃれするんだあなんつって、大学まで生きられないけどね(笑)」

的なジョークを言い笑っています。

 

実生活において「死ぬかと思った」とか「ここで死んでも面白いかもね」的な冗談は言いますが、まともに死に直面したことはありません。

果たして今、「余命1年です」と言われて、前向きに生きられるでしょうか?

できそうな気はするのですが、実際になってみないと自信がありません。

 

警察庁の自殺統計で(分かる限りの)自殺の動機について、一番多いのが「健康問題」です。

金銭問題が1位かと思いましたが2位で、3位は家庭問題とのことです。

それくらい健康問題というのは重く人の心にのしかかるものなのでしょう。

 

死を笑いに変える人と付き合えるか?

かたや、主人公の「僕」はそんな山内桜良のブラックジョークを受け止めます。

それもまた難しいですよね。

自虐をするにも関わらず、人に言われると怒るタイプもいます。個人的に一番嫌なタイプですけど。

とはいえ、例えば障害のある方の自虐ネタを笑っていいのか?

その質問の究極系が、リアルな死ネタだと思います。

お年寄りの言う「もう来年はお年玉渡せないかもしれないから」の心境は、まだ実感としては分かりません。あれは本気だったのかな。 

 

また、お互いがお互いをいじるのはOKでも、それを聞いた第三者から「不謹慎だ」などと注意を受けることもあります。

私とほぼ唯一の友達のO君とは、お互いの事を「お前が死ねばいいのに」くらいはいつでも言い合える関係性ですが、第三者の人にその話をすると、引かれる事が多々あります。

相手との関係性だけでなく、大人になると客観性も求められるので、相手の死をネタにいじることは難しいでしょうね。

 

切られた花でも活ければ あなたに何かを伝えた

祖母一人を除いて、私の物心がつく前に祖父母は亡くなっていました。

両親は今のところ健康ですし、そのため自分も含め「健康な人が死に至るまでの過程」をあまり体験していません。

幸いなことかもしれませんね。

 

唯一人の祖母が亡くなったのは、私が25歳くらいのことでした。

その祖母も10年近い認知症と介護施設生活で寝たきり状態から亡くなったので、

「早晩、死ぬのだろう」と「回復は諦めていた」というのが正直な心境でした。

 

それでも、人の死から得るものというのは大きいですね。

近しい存在の死は悲しいものではありますが、経験しておくとまた違った視点が得られます。

うまく言葉で表せない部分もあり、不適切な言い方かもしれませんが。

 

【ネタバレ】終わり方について

 嫌な言い方をすると「あれだけ病気で引っ張っておいて、違う死に方かい」というのが率直な感想でした。

しかし、「生と死」がテーマの本書においては、

「確実に訪れる死」と「いつ訪れるか分からない死」に差は無いと言いたかったのではないでしょうか?

余命半年と言われると、半年は生きられそうですが、明日火事で死ぬかもしれません。

健康診断で「20歳並みの健康体」であっても、その帰りに車に突っ込まれたら終わりです。

 

人は生まれながらに「平均寿命」という余命宣告を受けています。

それが何日残っていようが、何日経過していようが、(超)大局的な視点でいえば、微々たる差ですね。

有り体に言えば、結局は毎日を一生懸命生きるしかないってことですね。

自分が病気で「余命半年」と言われたときに、そこまでの境地にたどり着けるかはわかりませんが…

 

 

「君の膵臓を食べたい」というタイトルについて

昔の人は「悪いところ」があると、他の動物の同じ場所を食べると治ると信じていたそうです。

足が痛いなら足を、腕が痛いなら腕(たぶん前足?)を。

そのため、山内桜良は「僕」に対して「君の膵臓を食べたい」と冗談で言っていました。

 

「僕」には、山内桜良と比べて欠けている部分、欠点がありました。

内面的な話ですけどね。

山内桜良との出会い・行動・死を、ある意味「食べるように吸収していった」ことで、その「悪いところ」が補完されていったのでしょう。

そういうタイトルによる伏線回収だった、というのは深読みのし過ぎかもしれませんね。

 

何はともあれ、表面的な感動話ではなく、なかなかに考えさせられる良い小説でした。

映画も機会があれば観てみようかな。

 

 

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