「暇と退屈の倫理学」 國分功一郎 著
倫理学とありますが、哲学本です。
哲学を読むのは苦手なので、多少解釈が異なるかもしれません。
本の概要
暇と退屈の倫理学とありますが、ほとんどは「退屈」について述べられています。
人間は環世界を相対的に高速で移動ができるため、他の動物と違って退屈するそうです。
たぶん何を言っているか分からないと思いますが、そういうことです。
退屈
退屈の本質は、第一に時間によってその人が「引きとめ」られていること、そして何もない「空虚放置」状態にあることとされています。
そのため、人は何らかの形で「気晴らし」をして退屈を潰します。
そして更に一歩進んだ退屈「第二形式の退屈」では、「気晴らし」と「引きとめ&空虚放置」が同時多発で起こっていて入り組んでいるとされています。
結局、退屈は人間に付きものであり、第二形式の退屈を生きつつ、時々耐えられなくなると「第一形式の退屈」=何かに引きとめられて(無理やり)夢中になっているような状態に逃げ込むようです。
環世界
虫は、虫として世界を感じ取っています。
我々は葉っぱを葉っぱと認識しますが、虫はエサとしか認識していません。
コウモリは超音波で世界を感じ取るので、色がありません。
つまりは虫には虫の、コウモリにはコウモリの「環世界」があるというのが前提です。
人間も、昆虫学者と登山家では森を見る視点も感じ方も全く異なり、結局は人それぞれの環世界があると言えます。
で、ここまでは筆者の言う通りで分かったのですが…
人は昆虫学を学ぶことで、昆虫学者の環世界に移ることができる。
大してコウモリは超音波で感じ取るということに変わりはないので、環世界が移ることはないということになっています。
人間本位主義であれば人間を特別視していいと思うのですが、敢えて虫やコウモリ(本書内ではダニやトカゲでしたが)などの動物の例を出して並列にした意味が分かりませんでした。
人間が何かをきっかけに昆虫学者の視点を持ったとしても、「昆虫学者」という種族の人間はいないわけで、つまりはひとりひとり環世界は完全に異なっていて、移動という考え方自体が成り立たないのでは?と思いました。
感想まとめ
本書の結論は「ここまで読んでいろいろ考えただろう?その過程こそが価値さ」というものなので、実際には読まないと筆者の言いたいことは伝わらないでしょう。
なので、適当に本書の内容を書いたのです。
それにしても哲学書というのは分かりにくいですね。
哲学って、事実に基づく内容というよりは、思考そのものを論じるものだと思うので、逆に言えば事実はその人の脳内にしかありません。
なので、それを理解するのはお互いがかみ合わないと徐々にズレていって、最終的に何を言いたいのか分からなくなります。
本書は同じことが何度も出てくるので、議論が行ったり来たりしているようにも感じましたし、過去の哲学者の論じた内容を何ページも語って理解した(と思った)ところで、「これは間違いである」みたいな切り捨ても結構あり、疲れました。
結局ほとんど理解できなかったように思います。
説明が悪いというより私が悪いのかな。
よっぽどの思考・論理好きでないと、哲学は向かないんでしょうね。
哲学自体は教養として多少は知っておきたいのですが、やはり読むのがしんどいです。
人生は暇つぶし?
暇=時間が余り、やることもない状態
退屈=時間の有無ややることの有無に関わらず、飽きていて耐え難い状態
こんな区分でしょうか。
例えば、仕事に追われていると暇はありませんが、仕事がつまらないと退屈します。
何も強制されなければ暇ですが、好きなことをできるのであれば退屈しません。
そう考えると、人生は「暇つぶし」というよりは「退屈しのぎ」に近いのかもしれませんね。