『幸せになる勇気 自己啓発の源流アドラーの教えⅡ』 岸見一郎・古賀史健 著
アドラー心理学ブームはまだ続いているんでしょうか?
とはいえ、前回読んだ「嫌われる勇気」の続編です。
物語のはじまり
「青年」がアドラーの教えを実践。
教育者に転職したところ、全然うまくいかねーじゃねえか!とキレるところから始まります。
「他人への干渉」をなくし「褒めも叱りもしない」ことを説いたアドラーの教えでは、
「教育」はどうなるのか?という疑問を青年も持ちました。
全く同意見でした。
競争は否定、叱るも褒めるも否定
アドラー心理学では、競争は否定しています。なぜならば競争は周りを全て敵、いつか貶められるという世界観を持つからだそうです。
また、叱ること・褒めることも否定します。
褒めることは、相手を見下していて、かつその上下関係を維持したいから。
叱ることは手っ取り早く相手を屈服させ、コミュニケーションを拒んでいるから。
今回も教育については納得できなかったですね…
理由があること、ないこと
アドラー心理学の教育に関する説明を聞いて一番の違和感が、
「子どもにもすべての行動に理由がある」という考え方があるからでしょうか。
子どもの行動が全て計算されたものでしょうか?
そうだとすると、私の子ども時代は相当馬鹿だったのでしょうね。
注目を集めたいから悪いことをする子どもももちろん居るとは思いますが、
純粋な欲望を満たすための「悪」も存在するでしょう。
もちろん本書に書かれた「子どもにも尊敬の念を持つ」といったことは否定しませんが、ちょっと性善説寄り過ぎるかなあという気がしました。
幸せになる勇気とは
タイトルの「幸せになる勇気」とは人を愛する勇気と言い換えられます。
人を愛するとは、見返りも保証も求めずにただ相手を愛するということです。
つまり人を愛する勇気とは、相手を先に愛することです。
さらに、愛する関係を続けるのは困難が待ち受けるため、それも勇気が要ります。
そして相手を愛するということが広がっていって
「共同体意識」が芽生え、全てを愛して人生が幸せになる…ということ?のようで。
合う合わないは人それぞれ(いつものこと)
いつも私が感想を書くと出てきますが、合う合わないは人それぞれです。
ただ、アドラー自身もそれを認めているようです。
あくまでアドラー心理学は学問ではなく、意識の根底にあって、
人それぞれの解釈で進化していく事を望んでいるようです。
GOの幸福論
私の幸福論は、以下の2つです(たまにブレますけど)。
1.全てのことは自己満足である
2.不幸が無いのが幸せ
どんなことでも、自己満足できればそれでいいのです。
自分勝手という意味ではなく、私は「人に迷惑をかけたくない」ですし、
「好きな人には幸せになってほしい」と考えていますので、
その欲を満たすために人に優しくし、自己満足を得られればそれでいいです。
逆に嫌いな人が困ることは何とも思わないので、助けたいとは思いませんし、
助けることで私が幸せを感じることはないでしょうね。
アドラーの言う自己承認とは、これに近い考えかと思います。
また、不幸が無いのが幸せという考え方も重要だと考えています。
高望みせず、日々を安定して過ごせれば十二分です。
私がアドラー心理学を「納得」するかはさておき、
幸福について、人生について、哲学について考えることは時に重要だと思います。
その点では、読んで良かったかのう。