最近は流行り病×インターネットの負の相乗効果によって分断社会になってきたと感じます。
と、社会派を気取るわけではないのですが、それほど楽しくない話でも書いてみようと思います。
※先にお断りしておきますが、私は非常に器の小さい人です。
今こうしている間にも、世界では子ども達が貧困で…みたいな話ってありますが、アレに全く興味が湧かないんですよね。
社会問題を完全に無視する程には外道ではありませんが、かといって「大変だ!心配だ!」なんてことにはなりません。
じゃあ国内ならどうかというと、例えば私がフンドシと仮面を付けながら「あぁまた乳首が映っちゃってる!またGoogleに怒られるぞ!」なんて自撮りを撮り直している瞬間に、世を憂いて自殺する人だっているかもしれません。
ゲームだって、例えばスマブラでピーチがゴルフクラブでマリオの側頭部をスマッシュヒットしている一方で、夫のDVに耐えかねてゴルフクラブでカウンターを食らわした殺人犯がいるかもしれません。
ただそんなことは関係ないので、仮面も付けますし、スマブラも最近再開しました。
極端な例を挙げましたが、つまりは「自分の知らないところの不幸」はどうでもいいってことです。
と、これだけ書くと、やはり血も涙もない感じがしますね。
もう少し正確に言えば、「知っても心が痛まない程度の関係性の人の不幸」はどうでもいいということです。
小さい子が貧困にあえいでいたら、それは少し心が痛むかもしれませんので、解決できたらいいねと思いますが、一方で少し心が痛む程度では、具体的に何かしようとは思いません。
単なる「寄付」はしない主義というのがこういうことで、東北や熊本などの被災地も、直接行って何かを必要以上に買うことはしますが、何の見返りもなく寄付はしません(節税になるかもしれませんが)。
それは被災されたことが私にとってメンタル的に負の影響があるので、その払拭に経済的な支援を行うだけであって、たぶん本質的な復興支援とは違うのかもしれません。
井上陽水の「傘がない」という曲の歌い出しは、こんな感じです。
都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない
正にこういうことで、自分とその周りが良ければ、後はどうでもいいかなあと。
とはいえ、単なるワガママとは一線を引いています。
例えば私がフンドシ一丁で外を歩いていたとします。
私はそれで楽しいのかもしれませんが、おまわりさんや近所の人は不幸になります。
その不幸を私が直接感じ取れてしまうのであれば、それはやってはいけないということになります。
たぶん私も言語化しきれていない部分があるので、読んでいる方も分かりにくかったかと思います。
なので簡潔に言えば、家族・友人(少ないけど)くらいは、幸せになっていて欲しいということですかね。
会社の同僚辺りからは、半分以上はどうなっても別にいいと思っています。
後は、このブログを読んでいる人くらいは幸せでいて欲しいと思います☆
社会問題を知ることは重要ですし解決に向けて努力することはもっと大事だとは思いますが、自分の器の小ささを知っていると、過大な「負の情報」や「不幸」を知ることが、私にとって幸福につながるのでしょうか?
偽りの平穏でも、一生騙されていられるなら、それはそれで良いような気がします。
というわけで、変な思想記事を書いたので、以下は私のブログの中でも特に頭を使わない記事です。